完全な写真行為

完全な写真行為では入力と出力が完全に等しい。
そこに表現の余地は存在しない。

考える事と感じること

「考えるな、感じろ」という言葉で人が言わんとしてることは
「考えで感覚をブロックするべきではない」ということだと思う
それに対する反感は「感覚で考えをブロックするべきではない」
という事だと思う。
実際には多くの人は鑑賞している物に対して、心が動いており
「考えで感覚をブロックするべきではない」とか「感覚で考えをブロックするべきではない」
と思っているのではないかと、私は思う。

写真とは

光源、または光源の代替物から発せられ、光学的、化学的、または代替のプロセスを経て、認識へ到達する一つの粒子を想定せよ。
写真と呼ばれているものは、その粒子の束が「どのように」動いたかについての全知識である。

観測点としての自己

心理、意識等のヒトの内面と呼ばれる言語的構造は、代替可能な外部である。
イメージは言語構造があって始めて成立する。
イメージもまた外部である。

感覚器である目は構造を持つが、この構造は言語構造によってのみ規程されるのではなく、光の性質に従う。

言語構造の外部を現実といい、言語構造によって規程され認識された関係を世界という。

認識以前の視覚的な知覚は光に依存している。
光の性質については、構造や関係を簡単に見出すことは出来ない。
言語認識を行わなければ、現実を言語構造によってとらえることは出来ないからだ。
観測点としての自己を世界の外部に向けることによって、認識以前の現実を見出す事は可能か?

コミュニケーションのためのツール

言葉で伝えられないことを写真で伝えるとします
誰かに写真を見せる時、知りたいことは、伝わったのか伝わらなかったのかだけです
伝わらなかったものを伝わるようにするために写真を作ることが現在の私の仕事です

記録主義的ストレートフォトとは

記録主義的ストレートフォトは、人の社会的な活動を記録する事を目標とする、 手法としてのリアリズムであり、主に報道写真に多用される

現代において写真は人の社会的な活動を記録する道具として最も有効ではないため
記録主義的ストレートフォトはかえって写真の独立性から離れるものであり
本来のストレートフォトの精神に反する

美しさ

雑草という草は無いし、美しいという印象は無い

写真再分離派について

写真再分離派は、写真から映像(イメージ)を切り離す事を課題とする
写真と映像の決定的差異が全社会に浸透した時、写真再分離派は終了する
代表的な写真家として 『青柳健介』 が挙げられる

記号よりも信号を

記号とは文脈の過剰である
信号とは閉じられた記号である

なぜPNGなのか?

結論から言うと、PNGは画像の細部を明確な形で保存する事が出来るからだ。

まず、Jpegは保存する時に予測できないノイズが発生する可能性がある。そのノイズは必ず画像の高周波成分を省略することで発生する。それゆえに画像の細部を決定することが難しい。
Jpegは、細部の情報を省略することによって、小さなサイズでの保存を可能としている。
それでは、普段意識しない細部に対して発見を見出す事を可能にする、という写真の特徴を損ってしまう。

Rawは展開方法によって細部に著しい差が発生する。そのためやはり細部を決定することは難しい。
そのためビットマップ形式で保存する事が望ましい。
その中でもPNGを使用しているのは比較的普及しており手軽に扱える事と、tiffのように企業の独自規格で無いため、PNGデータの将来における互換性に期待しているからだ。

PNGは繊細な写真作品をネット上に公開するのに適したデータ形式といえる。

独自性と一般性について

他者が鑑賞する事を想定して作られるあらゆる物は、一般性に向けて作られている。
一般性とは、ある主体が認識する他者の性質である。

個々は独自であり、一般性の性質は信仰、信念に依存する。一般的な一般性は存在しない。

それゆえ、独自性(個性、オリジナリティ)に重きを置いて作られた物と、一般性(一般受け、エンターテイメント)に重きを置いて作られた物と、神の為に作られた物に、実質的な違いは無い。
違うのは、作られたものを取り巻く関係だけだ

似ている

「似ている」と「同じように見える」の違いがある
「似ている」は比較する二つが違うことが明白であるのに対して
「同じように見える」のは明白ではない
「似ている」ならば、認識していない何かがあることが明白である

同じように見えるなら、明白である
似ているなら、何かが隠されている

感性

感性、感覚、センスという言葉は、ある個人の感覚の性質を示すだけであって、
ある作品の実態の隠蔽や、作者の神性を演出する為に使うべきではない。
認識の無い感覚は無い。

表現のネガティブ

写真は表現のネガティブであるように思う
絵画は作者の中に内なる意志があってそれを表現する
写真は光の向こう側にある、外にある何かを知ろうとする
光と感光材の間にフォトグラファーが介在している
表現・・・(外)表現物(絵画等)←表現者←表現内容(内)
写真・・・(外)対象→光→写真家→感材→印画(外)

即物主義的写真

写真に置ける即物主義にとって、モノとは光を反射、屈折、回折等によって変化させる何かである。
それゆえに、即物主義的な写真においてはモノ同士の関係は重視されない。
即物主義的な写真とは輝度の差異を記録したグラフであるにすぎない。
完全な即物主義的な写真には、感光材とモノと光の関係しか存在してはいけない。

ビジョンとイメージ

目に見えるものには二種類ある
一つは、思い描く瞬間に、即座に思い描いたりできる、操作しやすいもの。象徴的なもの。オブジェクト。
これをイメージと呼ぶことにする
もう一つは、ある限定された幅の中で流れていき、固定されないもの。扱いにくいもの。
これをビジョンと呼ぶことにする
写真で例えると、ファインダーを覗いて見ている時、見えているものがビジョン
出来上がった写真がイメージという所
ビジョンには枠組がある。ビジョンはそれ自体では無くて、ビジョンの外部にある関係の集合(構造)によって発生する。
ビジョンをある瞬間に固定して取り出すとイメージとなる。

断絶について

A 雨が降っている
「ひどい雨ですね」
「雨など降っていないよ」
「へえ、じゃあなぜあなたは傘をさしているんですか」
「私は雨が降っているから傘をさしているのでは無い。そうではなくて、雨が降っていて、そして私が傘をさしているのだよ」
B 「規則は存在しない」
「もし規則が存在しないならば、あなたの言う『規則は存在しない』という規則も存在しないはずです。それゆえあなたの言っている事は間違っています」
「いや、私が君に対して、『規則は存在しない』と言ったのだよ」

理想的なカメラ

理想的なカメラとは、光を自由自在に操り、闇を自由に作り出すことのできる魔法のようなものだ。自由な写真は、この理想的なカメラが誕生して初めて撮ることが出来る。

記録

何かが記録されたものを記録物、何かを記録する行為を記録行為と呼ぶ。どちらも普通は単に「記録」と呼ばれる
文字を書いたり写真を撮影したり現像したりするのが記録行為であり、出来上がった文章や写真は記録物だ
普段は記録物から記録行為が読み取られ、伝達されるべき情報が認識されると思っている
何かが起こっても、それが記録されなければ、それは「起こった」と呼ばれる事は無い
それゆえ、記録行為はコミュニケーション行為の一部であるといえる

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